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2009年05月10日

新宿アイランド「LOVE」の都市伝説

i_ca04.gif夕方、少し新宿を歩いてきました。

アイランドタワー前の広場にある「LOVE」のモニュメントにはいくつかの都市伝説があります。相合い傘の像を刻むとその愛は永遠になるとか、Vの文字とEの文字のあいだを体が触れないように通れたら恋が実る、とか。

今日もたくさんのカップルがこの場所を訪れていました。

日が落ち、ふと人気がなくなったかと想うと、次の瞬間、たぶん、とても大切なコーリングを、このオブジェの影に寄り添うようにしてかけている人があらわれて、ああ、これもレジェンドなんだ、と想ったり。

ひとりの小さな子どもがやってきて、ジャングル・ジムみたいによじのぼっていましたが、もし仲間がいたら、あっという間にステキな伝説をつくりあげて、その世界に遊んでいたでしょう。

作者のいない、あるいは無数の作者がいる都市伝説。

あ、今日はフラワー・ショップにたくさんのお客さんがいました。この日はお花たちのおめかしがいちだんと美しい日ーーすこし恥ずかし気に愛をささやく日なのですから。
ニックネーム passions at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | ストリート

2009年05月07日

PROTECT ME FROM WHAT I WANT

i_ca04.gifまるで広告のように、街の電光掲示板に声なき叫びが流れていた。「PROTECT ME FROM WHAT I WANT(わたしの欲望からわたしを守って)」

自分がこわいーーそう感じる瞬間がたしかにある。

欲望とは恐ろしいものなのだろう。それはいつも錯乱していて、めまいを起こすような何ものかだ。

しかし、自分が何を欲しているのか分らないというおののきが、この街には充満しているようにも想える。欲してやっているつもりなのに、けっして消えることのない、かすかな違和感のようなもの。

「自分」という存在の不安定さ。盲者としてのわたし。この違和感には魔術的なチャンスが秘められているような気がする。
ニックネーム passions at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会

2009年05月05日

プレイ

i_ca04.gif今日は5月5日、子どもの日でした。ちょっと読書なんかしたりして、改めて「遊び」について考えてみました。

わたしたちは、愛ゆえに脱我の境地にはいりこむ。そして相手の人間のもっている、もうそれ以上は浸透できない、ときとして敵対するリズムに包まれることがある。


やや文章が堅くて難しいですが、これは恋愛の経験を思い出させます。

だがそれはすでに、似たような遊びを無生命のものと行なうとき、もっとも単純素朴なかたちで登場する、あの根源的なリズムで実験ずみのことなのである。


おもちゃや人形や絵本といっしょに、まさに我を忘れて遊びに没頭している子ども。そうした遊びはまた、愛の経験にほかならないといいます。

あるいはむしろこういうべきだろうか。まさにそういうリズムを手がかりにして、わたしたちは、はじめて自分というものをとらえるのである、と。


遊びの経験も恋愛の経験も我を忘れる。そして我を失うことで、自分というものが立ち現われてくる。

だからイジメは遊びの対極にあることになります。イジメは我にしがみついて、なりふりかまわず我を守ろうとするからです。

遊びの世界が個々の規則やリズムをすべて支配しているーーこの大いなる法則、つまりくりかえしの法則こそ、遊びの理論が最後に研究しなければならないものだろう。子どもにとって繰り返しが遊びの基本であり、「もう一度」という時がいちばん幸福な状態である、ということをわたしたちは知っている。


イジメは一種の遊びのように見えることがあるのですが、イジメられる側はもちろん、イジメている側もけっして幸福ではありません。幸福とは我が消え去ってゆくことであり、我に固執することではないからです。イジメのくりかえしは、遊びのくりかえしとはちがいます。「我」が分かたれ「自分」が創造されなければならないのですが、そもそもこれを可能にするのが遊びなのでしょう。

幸福は、遊んでいる最中にではなく、「もう一度」という瞬間にあるという指摘は、とても大切だと想います。

子どもは何かを新しく手に入れ、もう一度最初からはじめる。[…]おなじことをくりかえす、これがそもそも共同ということではないか。「のようにふるまう」のではなく、「くりかえしやる」こと。このうえなく心をゆさぶる経験が習慣へと転じること。それが遊びの本質である。


子どもだけがシンデレラになるのではないのです。人生と世界のいかなる状況にあっても、くりかえし新たなシンデレラになることができるのです。シンデレラは、永久不変のモデルにしばられたお姫さまではありません。もしそうだったら、わたしたちはすぐに退屈してしまうでしょう。

遊びを考えるうえで、最後に出てくる「習慣」「共同」がキー・ワードになってきます。人が孤立せずつながって生きてゆくためには、そこになんらかの習慣、つまり幸福な瞬間が必要なのですが、その一見ささいで目立たないかもしれない習慣は、いつも遊びと愛とに響きあっているのです。

なぜ「遊び」について考えたかったのでしょうか? 人間関係の難しさ(イジメも含めて)がやたらに強調されて、社会の大問題であるかのような雰囲気のなかで、放置プレイでもなく、虐待プレイでもなく、かといって愛の語りの綺麗事にもよりかからないとしたら、希望は遊びの実践にあるように想われたからなのでした。
ニックネーム passions at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 遊び/学び

2009年05月04日

言語を学ぶたったひとつの理由は……

i_ca04.gif「言語を学ぶたったひとつの理由は、その言語で詩を読み、そして書けるようになるためである。」

受験のためとか、検定のためとか、就職に有利だからとか、そういうのをいったんぜんぶとっぱらってみると、不思議なことに、言葉(日本語であれ外国語であれ)を学ぶのって、けっこう「おもしろい」という感覚が残るように想う。

何がおもしろいのか? この快楽は何だろう?

母語といわれるものが「自然に」習得されるというのはよく知られている。そこには偏差値とか頭がイイとかワルイとかとはまったくちがう世界があって、真の天才である子どもは、みな強制されることもなく、マスターしてやろうという意志もなく、まさに無我夢中で言語を学んでゆくように見える。

何が起こっていたのかを思い出すことできない。(幼年期は秘密であるという不思議!)けれど、もっと正確には、子どもは言語を「習得」するのではなく「発明」するのではないか。

生まれて初めて発した言葉は何だっただろうか?

オギャーだったかもしれないし、アーだったかもしれないし、ルルルだったかもしれない。喃語(なんご)ーーいずれにせよ、それは何語でもない、いまだかつて地上に存在したことのない、「たったひとつの、わたしのものではない言葉」だったのではないか。

子どもは言葉を発したかった。発すると、それは詩だった。そして歌だった。言葉は発したかったのだということを気づかせた。欲望と名は出会い、呼びあい、応えあった。だれも理解できず、だれにも伝わらなかったけれども、それはかけがえのない詩だった。こうして子どもは人間としての道を歩みはじめるのかもしれない。

詩では社会で生活はできないからと、やがてすぐに、ある特定の言語の型(文法)にはめこまれてゆくのだけれど、だからこそ、詩を発した瞬間の、創造の、不思議な快楽の思い出は、痕跡(trace)として、遠くにそしてすぐ近くに寄り添い続ける。

詩的言語は、けっして別れることのない、つねに別れていることが運命づけられている、永遠のパートナーだ。

別れてしまった恋人と再会するには、言語を必死に学ばなければならないのだろう。「言語を学ぶたったひとつの理由は、その言語で詩を読み、そして書けるようになるためである。」
ニックネーム passions at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月03日

学校の掲示物

i_ca04.gifある幼稚園では、子どもたちや保護者たちやお客さんたちを迎える玄関に、こんな言葉を掲げています。

子どもには友だちといる権利がある。そうでないと、ちゃんと成長できない。
子どもには平和に生きる権利がある。
平和に生きるというのは、健康に生活すること、人といっしょに生活すること、おもしろいものにかこまれて暮らすこと、友だちと暮らすこと、飛ぶことを考えること、夢をみること。
子どもは、知らなかったら、まちがえる権利がある。なぜかというと、問題とまちがいが分かったら、そのあと知ることができるから。
ぼくたち、わたしたちは、権利をもつようになった。そうでなかったら、悲しくなってしまう。


もちろん、ポスター風にすてきなデザインと装飾が施されています。

学校の掲示物は、たとえそれがたった一枚の紙であっても、美しく、おもしろいものでなくてはならないと想います。
ニックネーム passions at 15:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記



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