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2009年12月08日

生き延びる

i_ca04.gif新聞記事にのっていた対談です。

***
◇犬になりたい子供たち 平和を生き延びられぬとき、戦争招く

 清水 幼稚園や保育園でままごと、つまり家族ごっこが成立しなくなっているのはご存じですか。

 福岡 父親のなりてがいないというのは以前からよく聞きますね。

 清水 ええ。でも昔はお母さんになりたい子はたくさんいた。今はお母さんになりたい子もいないんです。で、みんな何になりたいと思います?

 福岡 まさか自分?

 清水 ペット。

 福岡 えっ。

 清水 犬に、ペットになりたいんです。3、4年前に初めて聞いた時、まさかと思った。でも学生の実習をお願いしている園を回って先生たちの話を聞くと、どこの園でも言われるのがそれ。園で写真を撮ったら、後ろに犬のヒモをつけて歩かされている子が写った。それで「こんな姿が写ったら親はつらいだろうと思ったんだけど」って言った後、「でも今、犬になるのは一番力の強い子、なりたいものになるわけだから」って。そんな時代。

 福岡 お母さんになりたくないのは、お母さんが怖いからですか。

 清水 怖いの。疲れてイライラしているように見えている。少なくともすてきな大人には見えていない。子供はいつもあれしなさいこれしなさいと言われ、何かできなかったらしかられる。

 福岡 つらいなあ。

 清水 つらいんです。家でいい子をしているもんだから、そのフラストレーションを園で爆発させて手がつけられないくらい暴れ回る。そんな子が増えて、先生たちが悲鳴をあげています。

 福岡 昔は逆だったでしょ。外でいい子にしている分、安心して自分を出せる家で爆発するんだと。家で自分を出せないから園で出すのか。それにひきかえペットは。

 清水 何もしなくていいし、いつもベタベタ愛されて。羨(うらや)ましいんです。もう病的な状態。

 福岡 底が抜けてしまっている感じですね。今がつらいのは幼子たちだけじゃないでしょ。

 清水 このごろの学生たちを見ていても、親子関係の変化を痛感します。経済的に大変そうには見えないのに、学費だけは出すけど交通費や書籍代などあとはすべて自分で稼げという親御さんが増えていましてね。奨学金を勧めると、奨学金は親が全部取っちゃうんですって。それが1人や2人じゃない。進学費用を親から借りる形にさせられ、就職して返すのは大変だから学生のうちにとアルバイトに追われる学生も増えています。

 福岡 最近は失業即ホームレスみたいに言われるから何か変だなと思っていましたが、今の話を聞いて納得しました。ホームレスやネットカフェ難民が出るはずだ。セーフティーネットだった家族とか地縁・血縁関係とかが機能しなくなっているんですね。

 清水 昔の親は貧しかったけれど違っていました。経済の懐というよりも精神的な懐が浅くなった気がします。親の。

 福岡 社会も。あらゆるものをお金で代替させるようになって、とても懐の浅い社会になってしまいました。

 清水 学生たちが「戦争体験がある人が羨ましい」と言い出して25年くらいになります。「みんな生き生きと戦争体験を話すのに、私たちにはあんなに生き生きと話せることなんて何一つない」って。驚きました。でも本当だと思った。私は5歳の時に北朝鮮から引き揚げてきたから、戦争の後に平和が来るんだとずっと思っていました。

 福岡 戦争に人々が懲りて平和が来ると。

 清水 でも反対だと分かった。人々が平和を生き延びられなくなったとき戦争を呼び寄せるんだと。
***

1941年に日本がアジア太平洋戦争をはじめた日にちなんで。

ニックネーム passions at 03:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月10日

新宿アイランド「LOVE」の都市伝説

i_ca04.gif夕方、少し新宿を歩いてきました。

アイランドタワー前の広場にある「LOVE」のモニュメントにはいくつかの都市伝説があります。相合い傘の像を刻むとその愛は永遠になるとか、Vの文字とEの文字のあいだを体が触れないように通れたら恋が実る、とか。

今日もたくさんのカップルがこの場所を訪れていました。

日が落ち、ふと人気がなくなったかと想うと、次の瞬間、たぶん、とても大切なコーリングを、このオブジェの影に寄り添うようにしてかけている人があらわれて、ああ、これもレジェンドなんだ、と想ったり。

ひとりの小さな子どもがやってきて、ジャングル・ジムみたいによじのぼっていましたが、もし仲間がいたら、あっという間にステキな伝説をつくりあげて、その世界に遊んでいたでしょう。

作者のいない、あるいは無数の作者がいる都市伝説。

あ、今日はフラワー・ショップにたくさんのお客さんがいました。この日はお花たちのおめかしがいちだんと美しい日ーーすこし恥ずかし気に愛をささやく日なのですから。
ニックネーム passions at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | ストリート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月07日

PROTECT ME FROM WHAT I WANT

i_ca04.gifまるで広告のように、街の電光掲示板に声なき叫びが流れていた。「PROTECT ME FROM WHAT I WANT(わたしの欲望からわたしを守って)」

自分がこわいーーそう感じる瞬間がたしかにある。

欲望とは恐ろしいものなのだろう。それはいつも錯乱していて、めまいを起こすような何ものかだ。

しかし、自分が何を欲しているのか分らないというおののきが、この街には充満しているようにも想える。欲してやっているつもりなのに、けっして消えることのない、かすかな違和感のようなもの。

「自分」という存在の不安定さ。盲者としてのわたし。この違和感には魔術的なチャンスが秘められているような気がする。
ニックネーム passions at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月05日

プレイ

i_ca04.gif今日は5月5日、子どもの日でした。ちょっと読書なんかしたりして、改めて「遊び」について考えてみました。

わたしたちは、愛ゆえに脱我の境地にはいりこむ。そして相手の人間のもっている、もうそれ以上は浸透できない、ときとして敵対するリズムに包まれることがある。


やや文章が堅くて難しいですが、これは恋愛の経験を思い出させます。

だがそれはすでに、似たような遊びを無生命のものと行なうとき、もっとも単純素朴なかたちで登場する、あの根源的なリズムで実験ずみのことなのである。


おもちゃや人形や絵本といっしょに、まさに我を忘れて遊びに没頭している子ども。そうした遊びはまた、愛の経験にほかならないといいます。

あるいはむしろこういうべきだろうか。まさにそういうリズムを手がかりにして、わたしたちは、はじめて自分というものをとらえるのである、と。


遊びの経験も恋愛の経験も我を忘れる。そして我を失うことで、自分というものが立ち現われてくる。

だからイジメは遊びの対極にあることになります。イジメは我にしがみついて、なりふりかまわず我を守ろうとするからです。

遊びの世界が個々の規則やリズムをすべて支配しているーーこの大いなる法則、つまりくりかえしの法則こそ、遊びの理論が最後に研究しなければならないものだろう。子どもにとって繰り返しが遊びの基本であり、「もう一度」という時がいちばん幸福な状態である、ということをわたしたちは知っている。


イジメは一種の遊びのように見えることがあるのですが、イジメられる側はもちろん、イジメている側もけっして幸福ではありません。幸福とは我が消え去ってゆくことであり、我に固執することではないからです。イジメのくりかえしは、遊びのくりかえしとはちがいます。「我」が分かたれ「自分」が創造されなければならないのですが、そもそもこれを可能にするのが遊びなのでしょう。

幸福は、遊んでいる最中にではなく、「もう一度」という瞬間にあるという指摘は、とても大切だと想います。

子どもは何かを新しく手に入れ、もう一度最初からはじめる。[…]おなじことをくりかえす、これがそもそも共同ということではないか。「のようにふるまう」のではなく、「くりかえしやる」こと。このうえなく心をゆさぶる経験が習慣へと転じること。それが遊びの本質である。


子どもだけがシンデレラになるのではないのです。人生と世界のいかなる状況にあっても、くりかえし新たなシンデレラになることができるのです。シンデレラは、永久不変のモデルにしばられたお姫さまではありません。もしそうだったら、わたしたちはすぐに退屈してしまうでしょう。

遊びを考えるうえで、最後に出てくる「習慣」「共同」がキー・ワードになってきます。人が孤立せずつながって生きてゆくためには、そこになんらかの習慣、つまり幸福な瞬間が必要なのですが、その一見ささいで目立たないかもしれない習慣は、いつも遊びと愛とに響きあっているのです。

なぜ「遊び」について考えたかったのでしょうか? 人間関係の難しさ(イジメも含めて)がやたらに強調されて、社会の大問題であるかのような雰囲気のなかで、放置プレイでもなく、虐待プレイでもなく、かといって愛の語りの綺麗事にもよりかからないとしたら、希望は遊びの実践にあるように想われたからなのでした。
ニックネーム passions at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 遊び/学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

言語を学ぶたったひとつの理由は……

i_ca04.gif「言語を学ぶたったひとつの理由は、その言語で詩を読み、そして書けるようになるためである。」

受験のためとか、検定のためとか、就職に有利だからとか、そういうのをいったんぜんぶとっぱらってみると、不思議なことに、言葉(日本語であれ外国語であれ)を学ぶのって、けっこう「おもしろい」という感覚が残るように想う。

何がおもしろいのか? この快楽は何だろう?

母語といわれるものが「自然に」習得されるというのはよく知られている。そこには偏差値とか頭がイイとかワルイとかとはまったくちがう世界があって、真の天才である子どもは、みな強制されることもなく、マスターしてやろうという意志もなく、まさに無我夢中で言語を学んでゆくように見える。

何が起こっていたのかを思い出すことできない。(幼年期は秘密であるという不思議!)けれど、もっと正確には、子どもは言語を「習得」するのではなく「発明」するのではないか。

生まれて初めて発した言葉は何だっただろうか?

オギャーだったかもしれないし、アーだったかもしれないし、ルルルだったかもしれない。喃語(なんご)ーーいずれにせよ、それは何語でもない、いまだかつて地上に存在したことのない、「たったひとつの、わたしのものではない言葉」だったのではないか。

子どもは言葉を発したかった。発すると、それは詩だった。そして歌だった。言葉は発したかったのだということを気づかせた。欲望と名は出会い、呼びあい、応えあった。だれも理解できず、だれにも伝わらなかったけれども、それはかけがえのない詩だった。こうして子どもは人間としての道を歩みはじめるのかもしれない。

詩では社会で生活はできないからと、やがてすぐに、ある特定の言語の型(文法)にはめこまれてゆくのだけれど、だからこそ、詩を発した瞬間の、創造の、不思議な快楽の思い出は、痕跡(trace)として、遠くにそしてすぐ近くに寄り添い続ける。

詩的言語は、けっして別れることのない、つねに別れていることが運命づけられている、永遠のパートナーだ。

別れてしまった恋人と再会するには、言語を必死に学ばなければならないのだろう。「言語を学ぶたったひとつの理由は、その言語で詩を読み、そして書けるようになるためである。」
ニックネーム passions at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする



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