
今日は5月5日、子どもの日でした。ちょっと読書なんかしたりして、改めて「遊び」について考えてみました。
わたしたちは、愛ゆえに脱我の境地にはいりこむ。そして相手の人間のもっている、もうそれ以上は浸透できない、ときとして敵対するリズムに包まれることがある。
やや文章が堅くて難しいですが、これは恋愛の経験を思い出させます。
だがそれはすでに、似たような遊びを無生命のものと行なうとき、もっとも単純素朴なかたちで登場する、あの根源的なリズムで実験ずみのことなのである。
おもちゃや人形や絵本といっしょに、まさに我を忘れて遊びに没頭している子ども。そうした遊びはまた、愛の経験にほかならないといいます。
あるいはむしろこういうべきだろうか。まさにそういうリズムを手がかりにして、わたしたちは、はじめて自分というものをとらえるのである、と。
遊びの経験も恋愛の経験も我を忘れる。そして我を失うことで、自分というものが立ち現われてくる。
だからイジメは遊びの対極にあることになります。イジメは我にしがみついて、なりふりかまわず我を守ろうとするからです。
遊びの世界が個々の規則やリズムをすべて支配しているーーこの大いなる法則、つまりくりかえしの法則こそ、遊びの理論が最後に研究しなければならないものだろう。子どもにとって繰り返しが遊びの基本であり、「もう一度」という時がいちばん幸福な状態である、ということをわたしたちは知っている。
イジメは一種の遊びのように見えることがあるのですが、イジメられる側はもちろん、イジメている側もけっして幸福ではありません。幸福とは我が消え去ってゆくことであり、我に固執することではないからです。イジメのくりかえしは、遊びのくりかえしとはちがいます。「我」が分かたれ「自分」が創造されなければならないのですが、そもそもこれを可能にするのが遊びなのでしょう。
幸福は、遊んでいる最中にではなく、「もう一度」という瞬間にあるという指摘は、とても大切だと想います。
子どもは何かを新しく手に入れ、もう一度最初からはじめる。[…]おなじことをくりかえす、これがそもそも共同ということではないか。「のようにふるまう」のではなく、「くりかえしやる」こと。このうえなく心をゆさぶる経験が習慣へと転じること。それが遊びの本質である。
子どもだけがシンデレラになるのではないのです。人生と世界のいかなる状況にあっても、くりかえし新たなシンデレラになることができるのです。シンデレラは、永久不変のモデルにしばられたお姫さまではありません。もしそうだったら、わたしたちはすぐに退屈してしまうでしょう。
遊びを考えるうえで、最後に出てくる「習慣」「共同」がキー・ワードになってきます。人が孤立せずつながって生きてゆくためには、そこになんらかの習慣、つまり幸福な瞬間が必要なのですが、その一見ささいで目立たないかもしれない習慣は、いつも遊びと愛とに響きあっているのです。
なぜ「遊び」について考えたかったのでしょうか? 人間関係の難しさ(イジメも含めて)がやたらに強調されて、社会の大問題であるかのような雰囲気のなかで、放置プレイでもなく、虐待プレイでもなく、かといって愛の語りの綺麗事にもよりかからないとしたら、希望は遊びの実践にあるように想われたからなのでした。
ニックネーム passions at 23:37|
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