★サンタクロース・プロジェクト★

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2007年10月18日

「人は愛し愛されるために生まれてきたのです。」

i_ca04.gifマザー・テレサの言葉です。この一言がすべてを語っているように想います。

そうしたくてもできない時がたくさんあります。どうしたら愛せるのか。

「わたしのこたえはシンプルです。祈ることです。」

〈祈り〉ーーいま自分にできる、ほんとうにほんとうに小さなことからはじめるのだと想います。

水谷修先生も、きみのやさしさをくばってごらん、とおっしゃっています。そうすれば、明日は自然にやってくると。

英雄になる必要はありません。生きることに些細なことなどないのだと想います。この一歩を自分で踏み出す勇気、それが〈祈り〉なのだと信じています。
ニックネーム passion at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉

2007年10月17日

「汝の足元を掘れ。そこに泉あり。」

i_ca04.gif現代ってどんな社会だろう? 競争、弱肉強食、孤立……。日々の生活が得体のしれないプレッシャーにさらされている、そんな世の中ではないだろうか。

社会や他人の「評価」を気にするあまり、自分を見失ってしまうそんな落とし穴がいたるところにある。そんな時も、豊かさや楽しさが湧いてくる泉は、自分自身の足元にあるのだと想う。

納得できて、信じることができて、ほんとうに愛することができるもの、希望を恵んでくれるもの。そんなものをみんなが探している。

自分と向きあうということは、じつはとても難しい。でも、これを通り抜けないと他者と出会うこともできないじゃないか。

自分という人間に存在意義はあるのだろうかーーこんな渇きにとらわれた時には、あせらずゆっくり、自分の足元を掘ってみたい。
ニックネーム passion at 01:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉

2007年09月29日

「魂に恥じない行為をする、それが喜びになります。」

i_ca04.gif日本のようにモノがあふれているところには、それなりにおもしろかったり楽しいことはあるかもしれない。でも、心からうれしいと想ったり、ふとした瞬間の笑顔に感動したりすることは、人生でも稀にしかないのかもしれない。

逃げたくなるようなつらい現実のなかでも、なぜあんなふうにやさしく静かに微笑んでいられるんだろう? この言葉は、マザー・テレサだからこそ言えるのだと想う。

「あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」(聖書)じつはこの前半の部分が大切なのだと想う。愛し愛される関係にありたいとはみんなが願うことだけど、そうなるためには、まず自分を愛せないといけない。いま、自分のことが好きだとーー嘘や偽りなくーーいえる人は、とても少ないように感じる。

マザー・テレサは、強いからではなく、自分が弱いからこそこのように生きられるのだともいっていた。強ければ、愛はいらない。弱いからこそ愛を感じ、支えあうことができる。

透明な弱さになることーーそんな存在でありたい。
ニックネーム passion at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉

2007年09月28日

「旅をすることは、一流の大学に通うことよ。」

i_ca04.gifアニータ・ロディックさんのステキな言葉。「旅は変化、チャレンジ、新しいアイディアそしてインスピレーションを恵んでくれる。」旅は魂を高め、深め、未知の世界へと運んでくれる、まさにかけがえのない出会いと別れに彩られた、わたしだけの学校。
 この方ももう亡くなられましたが、「サヨナラおじさん」こと淀川長治さんは、「映画がわたしの学校だった」とおっしゃられていました。淀川のおじいちゃんが書いた本の題名がこれまたいい! その名も「私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない」。
 読書も、芸術に出会うことも、旅なんだと想います。想像界の旅が自己と世界のなにかを変えてゆきます。そこに感動があれば、それが学校なのだと想うのです。
ニックネーム passion at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉

2007年09月23日

スクール

i_ca04.gif「学校」を意味する英語、スクール(school)の語源は「ひま」だということを忘れたくないと想います。
 スクールの語源は、ラテン語のスコラ(scola)やギリシア語のスコレー(skole)にさかのぼります。「スコレー」は、余暇(よか)・余裕(よゆう)・ゆとりといったことを意味していました。「ひま」を意味するスコレーが、なぜ「学校」の意味になったのでしょうか? 人間の物を生みだす能力が大きくなり、人びとに生活の余裕が生まれることで、世界や人間や文化に対する好奇心を追い求めることができるようになったからです。さまざまなしがらみ(衣食住の心配などなど)から解き放たれて、のびのびと好きなことができるようになること、フリー(free)になること、つまり自由ということと学校が出会い結びつくのです。
 これが「学校」だといえるためには、なんといってもスコレー、つまり余暇・ゆとり・自由がなければなりません。スコレーのないスクールは、そもそも言葉からいって「学校」とは呼べないでしょう。
 学校が自由であるというイメージは、はるか昔に消えてしまっています。学校に行くまえに、いろいろな不自由を背負い込んでしまって身動きがとれないことも少なくありません。遊んだり学んだりすることで自由な人間になれるーースクールはそんな場所であり時間であり続けてほしいですね。
ニックネーム passion at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉

2007年09月16日

遊ぶ その二

i_ca04.gifもともと「あそぶ」は、「日常の仕事や雑事を離れて、儀式や祭礼を行なう」ことを指していて、そこで詩歌や舞踊、楽器の演奏、占いや賭け事をすることだった。ここから芸能という活動が生まれてくるんだけど、それは神や仏とコミュニケーションを交わすという、とても大切な営みだったのだ。なんだか宗教ぽい感じがするけど、じつは今でもこれは変わっていない。なぜなら、人びとを慰めたり励ましたり喜ばせたりするには、「別世界」に行くことが絶対に必要だから。
 「遊ぶ」ということは、別世界を生きることなのだ。やがて「この」世界に戻っては来るのだけれども、その時には何かが変わっている。あそびはいつもお祭りで、神とか仏とかいう言葉は使わなくても、あのドキドキわくわく感は、やっぱりファンタスティック・ネバーランドのものだ。この感動がなくなってしまったら、遊びや芸能はたんなる金もうけの産業でしかなくなってしまうだろう。
 ガンガン遊ぼうーーいつも忘れないトキメキを抱いて。
ニックネーム passion at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉

2007年09月15日

遊ぶ

i_ca04.gif「遊」という字は、なんだか画数も多いし書くのが難しいな……と感じた人はいませんか? 「方」の部分と「子」の部分の位置を逆に書いてしまったりとか(^ ^;)
 「方」は旗(はた)を表わします。「子」は子どもで、「しんにょう」は道(みち)なので、道端の旗がひらひらしているところで子どもが遊んでいる、というようなイメージですね。
 「あそぶ」を辞書で引いてみると、「(1)仕事や勉強をせず、遊戯などをして楽しく時を過ごす。「かくれんぼをして―・ぶ」「よく学びよく―・べ」(2)酒・女・ギャンブルなどで楽しむ。遊興をする。「―・ぶ金に困る」(3)職をもたず、ぶらぶらする。「定年後は―・んで暮らす」(4)その物の機能・価値が十分に活用・利用されない状態で放置されている。「広い土地が―・んでいる」(5)〔漢字「遊」にその意味があることから〕(「…に遊ぶ」の形で)離れた土地へ行って風物を楽しむ。また、勉学する。(6)野球で、投手が打者の打ち気をそらすため、故意にボールとなる投球をする。(7)歌舞・管弦をして楽しむ。(8)人をからかう。もてあそぶ。(9)鳥獣や魚が、あたりを動きまわる。」(『大辞林』)とたくさんの意味と使い方の例がのっています。でも、「遊ぶ」ということのエッセンスというか、ほんとうのおもしろさを知るためには、もう少しさかのぼってみる必要があるみたいです。
 ちょっと長くなってしまったので、続きはまた明日! 
ニックネーム passion at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉

2007年09月06日

学ぶ その二

i_ca04.gif「まなぶ」は「まねぶ」だったらしい。「学ぶ」ことは「まねる」ことだというわけだ。
 日本語でも英語でも何でもいいのだけれど、なぜ言語を聞けたり話せたりできるようになったのかは、考えてみれば不思議なことで、自分でもとくに「勉強」したわけではないのだけれど……という感じではないだろうか。ひたすら真似をしていたらいつのまにかできるようになった、としかいいようがない気がする。
 「まねる」ことは「まなぶ」ことの出発点であり、その後もずっとベースであり続ける。このベースがしっかりあって、はじめて応用とか独創とかができるのであって、最初から一人でできてしまう「天才」というのは、じつはどこにも存在しない。職人や芸能、芸術の世界に飛び込んだ人がどうやって成長するかをよく観察すれば、いろいろなことがわかってくる。
 まず、学校や塾でやっていることが「勉強」なのだというイメージから自由になりたい。それは「学び」のなかでもかなり特殊で偏ったスタイルだといえる。こういってよければ、それはかなり「不自然」でもあるのだ。
 まねることは楽しい。だからきっと、学ぶこともおもしろいはずなのだ。
ニックネーム passion at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉

2007年08月26日

学ぶ

i_ca04.gif日本語は漢字もあるし大変ってよくいわれるけど、アルファベットにはない奥ゆきや色彩があって、なかなかおもしろい。
 学校の「学」という字は、簡略化されるまえは「學」と書いた。真ん中に二つある「×」は、人と人とが出会い交流する様子を表わしていて、それを左右から包み守るように描かれているのは「手」なのだそうだ。子どもたち、生徒たちのふれあいとコミュニケーションを大人や先生たちがサポートしているーーこんなイメージだろうか。そしてこうした場を支えているのが「子」で、「弟子」という言葉があるように、時には先生も含めて、ともに「学ぶ」仲間たちなのだということになる。大切なのはあくまで人だということだろう。
 うーん、昔の人ってなんてすごいんだろうと感心してしまう。現代のような、知識を教え込んだり説教をたれたりするのが教師や親だというイメージは、かなりしんどくなってきた。ここはいっそ「学び」のイメージをリフレッシュして、さわやかな風を招き入れたい。まずなによりも、出会い、交わり、支えあうこと。これが「学ぶ」ということなのだ。
ニックネーム passion at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉



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